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山内一弘

1932年5月1日生まれ
1951年
1952年 
1964年 
1968年 
1970年 
1971〜74年 
1975〜77年 
1979〜81年 
1984〜86年 
1987〜89年 
1991〜93年 
1995年 
1996年 
1998〜99年 
2002年 

愛知県出身
愛知県立起高校卒業後ノンプロ川島紡績に入社
毎日オリオンズ入団
小山正明投手との「世紀のトレード」で阪神タイガースへ移籍
広島カープに移籍
現役引退

読売ジャイアンツ打撃コーチ(V7・V8・V9 優勝)
阪神タイガース打撃コーチ
ロッテオリオンズ監督(前期2回優勝)
中日ドラゴンズ監督
読売ジャイアンツ打撃コーチ(日本シリーズ優勝)
オリックスブルーウェーブヘッドコーチ
阪神タイガース打撃コーチ
ヤクルトスワローズ打撃コーチ
台湾プロ野球和信鯨打撃コーチ(優勝)
野球殿堂入

●●●通算成績
通算出場試合数 
通算打率    
通算安打数    
通算ホームラン数   
通算打         
通算得点 

 
2,235試合出場
2割9分5厘(7702打数2271安打)
2,271安打(名球会会員)
396本
1,286打点
1,218得点
●●●タイトル・表彰
最高殊勲選手賞(1回)
本塁打王(2回)    
首位打者(1回)    
打点王(4回)     
ベストナイン(10回)
 

1960年
1959・70年
1957年
1954・55・60・61年
1954・55・56・57・59・60・61・62・63・68年
●●●キーワード
シュート打ちの名人

内角に食い込んでくる右投手の投げるシュートは、右打者にとって安打にするのが難しいボールである。しかし、山内はこのシュート打ちを得意とし他の打者がファウルにしてしまうボールを、センターやライトに運び安打とすることでシュート打ちの名人と呼ばれた。
打撃の職人
内外角のボールを巧みに打ち分けるバットコントロールを持つうえ、パワーもあった山内は、1960年には大毎ミサイル打線の中核として大活躍した。その優れた打撃技術から打撃の職人とも呼ばれた。
世紀のトレード

トレード自体がまだまだ珍しい時代にセ・リーグの看板投手(小山正明投手)とパ・リーグの大打者(山内一弘)のトレードは、大きな話題を呼んだ。

オールスター男
賞金泥棒
16回出場したオールスターゲームで計3度のMVPに輝いたうえ、毎年のように快打を放ち、大舞台での勝負強さを発揮した山内は、「オールスター男」と呼ばれた。その結果、毎年のように商品などを手にしていくことから、皮肉をこめて「賞金泥棒」のありがたくない呼び名で呼ばれることもあった。
前代未聞
1960年、東映戦に出場した山内は1-3とリードされた8回、二死満塁というチャンスで打席に立つもあえなく三振。ここで、東映の捕手がそのボールを後逸。この場面、捕手はボールを拾いあげ打者山内にタッチするか、一塁に送球しなければならないはず。ところが、東映ナインは、監督の指示もあり全員ベンチに引き上げてしまった。これが、ドラマが生むことに。同じくベンチに戻りかけた山内に、他のナインが一塁へ走るよう指示。わけもわからず走った山内は、前の走者3人に続いてホームに生還。この時、山内は、振り逃げで一気にホームに生還するという前代未聞の記録を達成?した。東映ベンチは、必死に抗議をしたが、ルールで振り逃げが認められているため判定がくつがえることはなかった。
かっぱえびせん 教えだしたら徹底的に指導するのが山内一弘。指導者時代、その熱心な指導ぶりから「(やめられない、止まらない)かっぱえびせん」との異名をとった。

山内和弘
    

1962年に、ファンの方からの助言もあり「和弘」から「一弘」に改名。

●●●エピソード※本人談
■野球との出会いから  
 プロ野球入団まで







 
小学2年生の頃、家のすぐ近くにあった小学校の校庭で町内の大人達が野球をしていました。そこでボール拾いをしながらキャッチボールを教えてもらったりボールを打たせてもらったりしていました。この時が私が初めて野球を知ったときです。それ以降近くの神社の境内で三角ベースのようなものをやったり、ボールを転がしてそれを打つといった遊びをしていました。終戦の年に中学1年生だった私は、野球部に入部し、以後6年間内野手・投手をやりました。昭和26年高校卒業後に、岐阜市のノンプロ川島紡績に入社しました。入社後打者に転向し1年を経て、毎日オリオンズにスカウトされ入団を決めました。話は前後しますが、高校2年生の時に中日ドラゴンズの入団テストを受けてみました。この時は投手として受験したのですが、一次は合格、二次で不合格になりました。3年生の時には三重県の四日市東洋紡の野球部入部テストを受けましたが、やはり投手としては不合格でした。そして高校卒業後、川島紡績に入社し野球部に入部したのです。川島紡績に入部後、投手には向いていなかったのでレフトに転向。以後プロになり引退するまで背番号8とともに20年間レフトポジションでした。
■改名の由来 昭和36年のオフシーズンの時、3人のファンの方から「和弘」の“和”の字はまるいという表現があり、ぐるぐる回り道をしたり曲がった道を進むようだから変えたほうが良いとそれぞれの方に言われました。“和”の字を音が同じ“一”にすれば一から数が無限に続くので、選手としても良いし将来コーチや監督にもなれるのではないか…とアドバイスを受けました。孔子の教えにも「人生30にして立つ」という言葉がありますから、昭和37年のシーズン途中に思い切って「一弘」に改名しました。
■世紀の大トレード
当時トレード自体が、ほとんど無かった時代ですから、セ・リーグの看板投手小山正明氏とパ・リーグの看板打者山内とのトレードは大きな話題になりました。いきさつはこうです。昭和38年のシーズンが終わって10年選手の給与問題というのがありました。これは、次年度の契約のために球団側から金額(おおよそ過去5年間の平均年俸)を提示してくるのですが、提示されなかった場合自由選手となれるということです。つまり自由に他球団と交渉できるのです。私の場合その提示額が満たされていなかったのと、この球団を出たいという気持ちがありましたので、そのことを後援会の何人かの方に相談しました。 しかしそのことがオーナーの立腹になり、トレードとなったわけです。この時ちょうど小山選手も阪神球団を出たがっていて水面下でトレードの話が進みました。そして、阪神のエースピッチャーと大毎の四番打者との世紀の大トレードが成立したのです。それまでのトレードにはトレードマネーが出ていたそうですが、私の時は書類のみの通達トレードでした。今振り返ってみると、パ・リーグからセ・リーグに移籍して、昭和45年広島東洋カープ最後に引退できたことは良かったと思っています。
■苦くて痛い経験 昭和34年8月27日、対近鉄戦でミケンズ選手から顔面にデッドボールを受けました。夢の三冠王を目指して頑張っていた時だったので、このケガによる欠場は私にとってたいへん悔しく苦いものでした。ボールが当たったのは目の下・ほお骨のところでしたからもちろんとても痛かったです。今でも軽い後遺症があります。
■バットの重さ 昭和27年(1952年)毎日オリオンズに入団したころは、メジャーリーグ・ヤンキースの捕手ヨギベラ選手モデルのルイスビル社製のバット、35インチ約940gの重いバットを使用していました。昭和29年ごろから34.5インチ、910g〜930gの短く軽いものにしました。

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